2024/12/06 15:15
かつてハンセン病を病んだ著者が読者へ向けたメッセージの書である。伊波敏男さんは14歳でハンセン病を発症し、沖縄愛楽園に「隔離」され、16歳で同園を「逃走」する。ハンセン病を発症した患者が唯一学ぶことができた高校・岡山県内の長島愛生園内にある邑久(おく)高等学校新良田(にいらだ)教室に進学するためだった。
米軍統治下の時代である。パスポートを入手することができても出入国管理令と検疫法をくぐらねばならない。当時、「らい病」は特に厳しくチェックされ、それと分かれば「乗船拒否か強制送還」された。
鹿児島県のハンセン病療養所・星塚敬愛園に入所。「日本人」患者になって、新良田教室で学ぶ。さらに学びを深めたいと、東京の中央労働学院に入学するのは1967年。卒業後の69年、社会福祉法人東京コロニーで社会生活をスタートした。患者隔離を定めた「らい予防法」の下、すさまじい差別や偏見が吹き荒れるなか、ハンセン病回復者を名乗って、である。そういう著者は、人権や尊厳をどう捉えるか。
第1章「ろうあの弟と兄」は東京コロニーに勤務していた頃のエピソード。両親は他界していて、筆談での面談にもほとんど親代わりの兄が答えてしまう。弟は外注製本会社で技術習得に励むが、その工場でははじめてのろうあ者だったため、手話サークルが誕生し、毎週講師と弟を中心にした活動が続く。人の輪が生まれ、笑いがはじける。3年たち、弟は授産施設の一員から社会保険も労働保険も適用対象となる福祉工場への就職がかなう。
順調なステップアップに満面の笑みを浮かべる兄。ところが、その3か月後、憔悴(しょうすい)しきった弟が著者を訪ねて来て問う。「3か月も会話のない世界に耐えられますか?」と。新たな職場では会話らしい会話はほとんどなかった。授産作業者の処遇でいいから帰してほしい、と訴える彼の意思は固く、授産施設に戻ることになった。「逆コース」である。「雇用関係がある世界から、授産の処遇に引き下ろすのか」と怒る兄に著者は言う。「『やっと自分の意思で、自分のことを決めたか』と褒める言葉をかけることができないのですか!」と。異議が全編を通して脈打つ。目の覚める思いがする。(山城紀子・ジャーナリスト)
沖縄タイムス社・1980円/いは・としお 1943年南大東島生まれ。2004年信州沖縄塾開塾塾長就任。24年「第32回若月賞」を受賞。主な著作に「花に逢はん」など